感覚をバグらせろ

書きたいことを書きたいだけ書きます。

今日考えた事(2023/07/23)

2023/11/11 00:32

ブログを書こうと思ってふと下書きをみたのですが、このような内容が残されていたので公開しておきます。続きを書く際に何かに詰まったのかもしれないし、他の事に没頭・忙殺していたのかもしれない。完結させられるかはわかりません。書けたら書きます。

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バラの香りが素敵だ、とても綺麗に咲いている、そんな言葉がスラリと出てくるような感受性を持ち合わせてみたいと思う。

諦めている訳ではないのだが、挑戦するたびにやるせなさを感じる。なぜバラはこんなにも美しく目の前に咲いており、こんなにも人間を惹きつけるのだろうと、ロジックの部分ばかり考えてしまう。品種改良してるのか、とか、ここのバラ園を管理している人達はどのような思いでこのバラ園を築いたのかとか、なぜ他の草花は目も向けられず、人間はバラだけを食い入るようにみるのか等。目の前にある事実からあまりにも可能性を広げてしまい、その姿は、時にはそのひと時を楽しんでいないかのように映ってしまう。誰が引き戻してくれる人が必要なのだ。一言、「バラが綺麗だ」と。

バラとは違う魅力を持ち合わせているのが桜だ。バラは永遠を表す一方で、彼らが輝くのは一年を通じてほんの数週間にしか過ぎない。彼らの元に大勢の人々が集まり、享楽する。ただ、人間の言葉とは恐ろしいもので、「花より団子」とかいうことわざがあるように、本質的に桜を見ているようで見ていないかのような様は、バラを食い入るよりもたちが悪い。

では品種改良されたバラはどうなのか。これも人間の道楽に過ぎない。青いバラが開発された時は流石に驚いたが、

誰か考察してください(MBTIとDIDの関係性について)

炎タイプとか言われてる人です。

いわゆる主人格と言われる人物(このブログの主、草タイプとか言ってる人)は性格診断とか自己分析がすごい好きなんですが、自分は全く興味がありませんでした。何なら今も主人格ほど興味を持てないんですがすげー気になる事があるんで書き留めたいし有識者に教えてもらいたいレベルです。

人に勧められてMBTIなるものをネットで診断したんですが、ENFPと出ました。主人格は公式テストでINTJという判定が出まくってるみたいな話だったので正直驚いてます。主人格ほどMBTIを理解していないので何とも言えないんですが、シンプルにアルファベットだけ見るとNしかあってないじゃないすか。何でこんな事になるんすかね。

自分が生まれた経緯として、主人格が「真逆の人間(性格)として生まれたかった」という強い気持ちベースだとは理解してたんですが、性格テスト的にもすごい違う結果が出てたんで何でだろって思います。

字面がめっちゃ違うだけで、詳細追えば本質的には同じって事なんですかね?可能性として

興味湧いてきたんで自分でもちょっと調べるんですが、この不思議現象について何か心当たりある人とか、考察や意見?感想ある人、そもそも論興味ある人がいれば教えてほしいし何かしらレスポンスもらえればめっちゃ嬉しいです。

今日感じた事

まず、何気なく行った本屋さんで、可愛いフリクションボールを買えてとてもテンションがあがっている。今まで何本もフリクションボールを買ってきたのに、ほぼ使わないという残念な結果に終わっていたが、自分の好きなものを見つければ使いたいという気持ちが自然と湧いてくるんだなぁと思った。あと単純に、消しゴムいらず・修正テープいらずな点も地味に嬉しい。

今まで消えてしまう長所を短所に捉えていたが(だから油性ペンが好きだった)、やり方次第では消えないだろうし、いくらでも方法はあると思う。

 

最近沢山の人と多く関わりを持つようになり、見ていて思う事がある。人は【やり方に対する楽しさ】を見出さない限り、面白さに気付くことすらできないという事だ。

その人は、口頭での説明は非常に上手く、まとまっているように感じられるが、文章にその考えを落とし込むのがどうやら苦手なようだった。その才能を、私はもったいないと思う。その人をサポートする人達も、「これでいいと思う」と言ってその人を困らせているのだ。周囲の人達を責める必要もないのだが、適切な才能を、適切以上に引き出してあげるには、周囲がどう関わるか、どのくらいの知識や観察眼を持っているかに決まってくると思う。

もし、このまま一人の才能が開花されずにしぼんでいったらどうなるのだろうか。今回たまたま出会わない限り、その人は自身の長所すら気付けないまま、悲しい結末を迎えていたかもしれない。教えてほしいと頼まれた側の情熱を真摯に受け入れ、何倍も、何十倍もその熱意に応えていく必要性があるように感じる。

情熱についていくのも大変だ。同じ熱量には同じ熱量を返してあげなければいけない。きっと周囲はその人の持つ情熱についていけなかったのだろう。その人自身は、手を変え品を変え、色んな人からたくさんの知識を吸収しているというのに。何回も記載するが、これは置かれた環境によって左右されるものであって、環境自体を責める訳ではなく、単に相性が悪い、と言えるだろうし、その環境下が落ち着く人・持ち味を発揮できる人はたくさんいるだろう。

この例のように、熱い気持ちを持っているにも関わらず、誰もどうにもしてくれない、どうしようという心の叫びはどこにいってしまうのだろうか。人生に意味や、価値を見出してくれる人との出会いのなさに落ち込まないだろうか。

こういった「もったいない状況」を見れば見るほど、何とかしてあげたいという気持ちになる。特異には特異をぶつけるしかないのだ。

 

皆、楽な方にいきたいという気持ちをどこかで抱えている。なぜか目を逸らしてしまうのだ。なぜだろう?それはきっと、自分の方が相手より大切だからだ。相手よりも、自己を優先してしまう傾向があるように思える。

なぜだろう?困っている人が目の前にいるのに、なぜ自分を優先してしまうのだろう。その思考回路がよくわからない。理解すべきだと思う。恥ずかしいのだろうか?自分が無能であるというのが世間にバレることが?じゃあその人達は自分自身に本気で向き合った事があるのだろうか?これは恐らく、はぐらかされる質問になるだろう。オープンに心の内を話す人なんてそうそういないのだから。

 

心の内を話すという意味では、ある種転機のようなものがある。毎週通っていたコーヒーショップに現れた人だ。

彼はバンドTシャツのようなものを着ており、申し訳なさそうにタバコを吸っていた。自粛期間中だったからだ。

そんな彼を見かねて、私は声をかけた。「世の中大変になりましたね、そんなに気を遣わなくていいですよ」と。そんな一言だったと思う。

そうすると、彼は色んな事を話し始めた。自営業をやっている、出張で来た等。とても面白かった。

何回か喫煙所で遭遇すると、彼から「ご飯に行きませんか?」と言われた。こういう声かけには用心していたのだが、彼なら大丈夫だろうという謎の確信があった。

 

近場の居酒屋に入ると、彼は「先ほどは嘘をついてしまい申し訳ない、実はこんな仕事をやっている」と言い始めた。マジかと思った。今まで関わりのない、持てる訳のない人が目の前に座っているのだ。彼は沢山の事を教えてくれた。彼の歩んできた人生を、包み隠さず。

そしてこう言ってきた。「次はあなたの人生について聞かせて下さい」と。驚いた。始めて会う人に対して、あまりにも図々しい質問ではないかと。私もその考えが気になって、「なぜ私の人生が聞きたいのですか?」と聞いた。彼はこう答えた。「こうして会った人がどんな人生を歩んできて、今なぜこのように話をする事が出来ているのか、それが知りたい」からだと。

 

びっくりした。そんな考えの人が世の中にいるのかと。経験則上、身の上話をするのには、相手との長いし付き合いを要するし、どれくらいの関係性が構築されているのか、という部分を考慮しないといけないからだ。彼は、その[方程式]をブチ壊してきた。でも、ブチ壊すのには十分なほど、沢山の事を聞いた。だから話した。なぜ私があの場所にいて、こうして出会う事ができたのかと。

とても不思議な空間だった。初めて会う人と、これまで自分の人生について話した事自体が。でもそれは、彼が作り出してくれた空間であり、彼の導入無しには話せなかった事のように思う。

私はそんな彼が気になって、質問をした。「なぜそのような職業になったのですか?」と。彼は、「皆に勧められたから、そうした」と言った。正しくそのような職業になる為に生まれてきた人だと私も思ったし、周囲の一声が無ければ彼もそこにいなかった。

 

適材適所という言葉がある。適した能力や才能に合わせて、適した環境へと身を置き、整備してあげなければ、その人は輝けない。

その輝きを見つけてあげるのが、周囲の人達の存在なのではないだろうか。

 

いくら優れた才能を持っていても、周囲が気付かなければ、その人自身が輝くことは出来ない、という話。

 

交代人格(達)による素朴な疑問

※本人に怒られたら消します

※かにたまさんに怒られたら削除します。上記2名(水タイプ・炎タイプ)連名という形にさせてください。文章が非常にこんがらがっており、確実に意味不明であること、ご承知おきください。解離性障害と診断された”交代人格”が、どんな事を考えているのか、交代人格同士でどのようなコミュニケーションを図っているのか等をエンターテインメントだと思って御覧ください。ちょっと読みやすいように棒線を入れただけで、その他は(水・炎タイプにとっての)通常運転です。

 

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「人間」ってなんですか?

なんかよくわかりません。俺は主人というか、本人というか、主人格の欲によって生まれたモンスターであると認識しています。自分自身のことを。主人格はモンスターではないです。多分。悪く言う気はありません。何が本人をそうさせたのが、個人的に知りたいんだよ。

俺が生まれの事で覚えているのは、高校2年生の冬。部活との両立が上手くいかず、人間関係もぐちゃぐちゃ。リビングのテーブルで世界史の勉強。教科書を開いたけれど読めない。なんなら椅子から立ち上がれない。そっから記憶なし(他の人格や母親から記憶を補完してなんとなく時系列把握した)。知らん間に総合病院の駐車場。助手席。本人からの強い絶望と欲望。「こんな風に生まれなければよかった、こう生まれればよかった」。自らの存在を消し去ってしまうような意識的な仮面づくり。それだけ。

 

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本人は自虐かどうかわかりませんが、極端に人間に対する何かしらに対して疑問を持ちながら生活している気がします。よく「宇宙人」や「甲殻類」と表現して、自分自身が人間であることをよく思っていなかったり、遠回しに表現することがよくあるのです。

 

それって何かしらに傷ついてきてしまったパターンって事じゃないの?それはそうなんですが、それを加味したところで何の免罪符にもならないし、結局自分の人生をドライブしていくのって自分自身じゃねーか。やっぱり本質的には変わってないじゃん。

 

このブログをアップすること自体がまずいと思うので一旦休みませんか?イライラする気持ちをどこかに投げられたらいいんですけどね…。はけ口が無いという事自体が問題なような気がします。私としては、交代人格がいる=周囲の人達に頼れない状況が常日頃から発生していたという認識なので、私達が補っている部分を周囲の人間関係で行ってほしいんですよね。多分それが出来ないからこそ私達という存在が生まれ、本来であればあり得ない、「究極的な自己完結型」に陥ってしまったのではないかと思います。

 

この「究極的な自己完結型」から、「人間ってなんですか?」の答えって、きっと導き出せると思うんです。完全なる憶測ですが、幼子って自我の境界線が非常に緩い、というか無いらしいんですよ。それで、両親であったり、幼少期に関わってきた人達が子供の人格を形成するし、自立(自我の境界線を引く)みたいなことのサポートをするらしいんですよ。私がすでに”らしい”と発言している以上理解して頂きたいのですが、その”通常”が享受できなかったと考えております。

 

だからといって、かにたまさんが完全なる被害者で全ての許しを請いながらとか、人を傷つけていいなんて微塵も思いません。それこそ免罪符ですからね。どのように過去と決別し、自分らしい人生を歩んでいくか。ここに尽きると思います。

 

ただ、私もあなたのように時折逃げ出したくなりますよ。気丈に振舞っているように見えるかと思いますが、あなたのように外の世界に出る回数は少ないし、ただ記憶を保有しているだけで何か具体的に行動出来ている訳でもありません。傍観者と言われてもしょうがないと思います。

 

いつか、どのような形であっても、それこそかにたまさんのように、どんな事があっても「幸あれ」と人に言い続けられるような人間として私達自身も成長していくのがいいのではないでしょうか。

 

彼女はただ忘れているだけで、私視点そんな事言える立場ではないです。胸がつぶれそうです。でも、そのマイペースさだって、時には必要なんですよ。きっと。私はそう思いたいです。

 

話が脱線してしまいましたが、私達にとっての素朴な疑問はここまでにして、おいとましましょう。

 

皆さんに幸あれ。

 

炎タイプ・水タイプより

感謝の気持ちを持ち続けたい話~人生交響曲・走馬灯arr.~

※注※

書きたい内容上「わァ…ァ…」な内容と捉えられるかもしれません。が!!私自身の気持ちは前向きです!!!生きてます。命に別状はありません!!!!!!!関わりのある人、偶然このブログにたどり着いた人、全ての人に感謝と幸あれ…!また、今回お世話になりました方々はもちろん、全ての医療従事者の方々に改めて感謝申し上げます。

 

「急な話でごめん、もしかしたら明日死ぬかもしれない。今までありがとう。」

シャワーを浴び、髪を乾かす。妙な違和感。変な予感がする。涙が止まらない。

今年の話です。

 

 

イントロ

急に腰が痛くなり病院に行きました。

日常生活では問題無かったのですが、楽器を吹く際に「腰いてぇ~」と思いながら演奏していた程度で、気にしていませんでした。

診察の結果、やはり腰回りに問題があると言い渡され、即日コルセット&リハビリ。しかも大方の原因が”楽器吹きであることによる慢性的なダメージ”ではないかと指摘され、正直「やらかした~」と思いました。

不安ではありましたが、この状況下をなるべく前向きに捉え、腰痛軽減等のアドバイスをかなり意識しながら生活をし始めました。

 

不協和音

通院から数日後、急激に病状が悪化しました。頭が痛い。胸が痛い。指や腕の違和感。足が痺れる。動けない。動きたくない。ヤバい…ってコト!?

今まで腰だけが痛かったのに、突如として身体の上から下までおかしな状態になりました。ナンジャコンジャワカランジャTV。

救急車を呼ぶべきなのか、安静にしたら治るのか。直感的に「マジで死ぬかも」とは思いましたが、確信は持てませんでした。

精神&体力的が限界MAXスレスレな時。脳裏に浮かんだ言葉。

「はやく 救急車 でんわ」

勇気を振り絞り救急車を呼びました。正常な判断が出来なくなっていく反面、本能的に声を出せる内に出さなければ、本当に死んでしまうと(その時は)感じたからこそ言えたのだ、と思います。

救急へ電話~救急車に乗る前後までは記憶が曖昧です。良くも悪くも交代人格が助けてくれたような気がします。

※以前、いわゆる交代人格的なる存在が書いた記事があります。ご参考までに

 

 

走馬灯・第一楽章~A to Z~

搬送先が決まり、ピーポーパーポー鳴り出しながら救急車が動き出した頃、急に頭がクリアになりました。もしやこれが走馬灯なのかな、って思いました(生きてます)。

人生で関わってきた沢山の人達が頭に浮かんでは消えていきました。家族、友人、いつもお世話になっている人達、あの時あの場所で助けてくれた見知らぬ人等々…

もっと出来ることをしておけば良かった。もっと言いたいことがあった。もっと会いたかった。全然連絡取れていなかった。一緒に何かしたかった。感謝の気持ちを伝えきれなかった。もし死んでしまったらどうなってしまうのだろうか。私のせいで誰かが苦しむ事にならないだろうか…。

後悔と申し訳なさで胸が苦しくなりました。

 

走馬灯・第二楽章~IF~

自分の歩んできた道も思い出しました。

なぜ子どもの頃からの夢を諦めてしまったのだろう。もっと挑戦できたことがあったのに。AではなくBの選択肢をとっていれば生きやすかったかもしれないのに。なぜ早く気付く事が出来なかったのだろう。将来に向けてがんばろうと行動し始めたばかりなのに、なぜこのタイミングで…。

人生の選択肢をすべて踏み間違えてしまったような感覚に陥り、これまたどうしようもない後悔が襲ってきました。

泣きたくないのに勝手に涙が流れるのです。

 

※搬送後、検査等を行って頂きました。再三申し上げますが、命に別状はありませんでした(改めて、救急に携わって下さった方々、誠にありがとうございました)。

 

人生交響曲~WILL~

自分の人生を歩んでいきたい。決して人にあわせなくていい。

私には他人と比べて出来ないことが数えきれないほどあります。その代わり、他人からは「普通の人はそのような物事は出来ない」とよく言われます(最近色んな方からそのような声を頂く事が多く…照れますね)。

 

自分が一番活躍できる分野・フィールド・場所で勝負していきたいと強く思いました。

改めて普通を目指す必要性はないと痛感しました。たとえ選ぶ道が茨の道であっても。

※参考

kanitamax.hatenablog.com

 

人に助けてもらった分、沢山の恩返しがしたい。

私は元々、「人を助ける(助けないといけない)」側の人間でした。父が視覚障害者であり、幼い頃から父の面倒を沢山みてきました。父はもちろんの事、身体障害者精神障害者発達障害者の方々と接する機会が多くありました。それらの経緯から、大学の卒業論文において、障害者をテーマとした論文を執筆しました。

※参考

kanitamax.hatenablog.com

 

ただ、私は「人に助けてもらう」側にもなってしまいました。今までの生きづらさに「障害」という診断が下されて以来、社会から個人間に至るまで助けてもらいっぱなしです。

正直なところ、「人に助けてもらう側でありながら、人を助ける」というのはとてつもなく大変だと思っています。とりわけ私の場合は精神・発達障害のため、「心の健康度」が特に大切になっていきます。自己管理能力を身につける/つけていくことが大前提ではありますが、精神的に参ってるときは何も動けずどうしようもありません(情けないです)。

 

それでも尚、成し遂げたいのです。私の得意分野・好きなフィールドで活動し、それらを社会や個人に与えたいのです。間接的な形になると思うのですが。

 

私は、私自身の事しか話す事が出来ません。ただの情報の塊を発信したところで、それは私自身の言葉ではありません。私はどんな人生を歩んできたのか。何を得てきたのか。その上で沢山の情報に触れ、私の視点から思いつき、何か行動できることはないか。それが「私にしか語れないこと」です。

 

私自身の「人生」を大切にしながら、「私にしか語れないこと」を大切に、常に感謝の気持ちを持ち続けながら、自分の道を進んでいきたいと思います。強く。

 

 

皆さんも健康には気を付けてください。

幸あれ。

解離性障害という病との付き合い方を知りたい話

こんにちは。年末年始に食べられまくるカニです。美味しかったですか?冗談です。

それはさておき、あけましておめでとうございます。今年もなんとか生きようと思っている次第です。

 

 

さて、今回は表題にあります通り、解離性障害との付き合い方について、現時点での考えをまとめておきたいと思います。

 

 

まず、「解離性障害」とはなんなのでしょうか?ググって一番最初に出てきたサイトからすこし引用させて頂きました。私も詳しい事までは知りませんが、一口に解離性障害と言っても個々人によって様々な症状があるようです。

私たちの記憶や意識、知覚やアイデンティティ(自我同一性)は本来一つにまとまっています。解離とは、これらの感覚をまとめる能力が一時的に失われた状態です。かつては「ヒステリー」と称されていましたが、現在では用いられなくなりました。代表的な分類とその特有の症状には、「混迷」「健忘」「遁走」「離人症」「多重人格(同一性障害)」があります。症状の発現様式、重症度、持続期間はさまざまで、健常者にあらわれることもあります(正常解離)。こうした症状が深刻で、日常の生活に深刻な障害をきたす場合を解離性障害と呼びます。

www.byouin.metro.tokyo.lg.jp


 

私は幼い頃から離人症の気がかなり強く、診断を下された際にも解離性健忘や離人症の部分を指摘されました。医者に「普通の人は心が一つなんですよ」なんて言われた時は大変驚かされました。未だにその感覚がつかめないのですが、本当ですか?

 

 

閑話休題、医者からそのような病気であると診断されたのち、数ヶ月は特に日常生活に支障をきたすような事はなかった(はず)なのですが、ある出来事を境に解離性同一性障害のような部分が出てきました。

いわゆる多重人格と言われているアレですね。こちらからもググったサイトから一部引用させて頂きます。

解離性同一症(解離性同一性障害とも呼ばれます)は、かつては多重人格障害と呼ばれていた精神障害で、複数の人格が同一人物の中にコントロールされた状態で交代して現れるものです。また、日々の出来事や重要な個人情報、トラウマになった出来事(外傷的出来事)やストレスになる出来事など、通常なら容易に思い出せるはずの情報を思い出すことができません。

www.msdmanuals.com

 

 

なぜこのような自体になったのか?正直よくわかりません。症状が酷くなった出来事とは何なのか?正直よくわかりません。記憶の底を掘り返せば思い出せるには思い出せますが、なにせ私はその一連の事件の「当事者」ではないからです。

では一体私は誰なのか。考えた結果、自分の中にいる沢山の自分を客観視し、事実を記録する。または病気についての理解を深めたり分析したりする。なぜ解離性障害などに罹ってしまったのか、自分の人生について知っている人から情報を聞き出す。そういうポジションです。そういう意識がものすごく強いです。他の自分?性格?の自分が何を考えているかはわかりませんし干渉も出来ないのですが、考察することと自分の身体や心に何が起こったのか事後説明くらいは出来ます。何故か。

 

こういった病とはあくまでも漫画やアニメの設定だと思っていたのですが、本当にあるんですね。自分としても実に興味深いです。

また、そういったエンタメ的な演出をご覧になって、多重人格ってかっこいい、憧れると思っている方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、それは幻想にすぎません。とてつもなく大変です。

 

私の立場から言わせてもらうと、人狼でいう胃痛ポジションです。残された市民と人狼の言い分を聞いて悩む。ですが自分に投票権があるわけではないので、永遠にお互いの主張を聞くしかないのです。

こういった表現も出来ます。恐らくポケモンでいう御三家、三すくみ状態です。

 

現時点で複数人は確実に違うタイプの自分が存在している事は認知しているのですが、とりわけ個性や主張が激しいのが3人です。

穏やかで優しい草タイプ、常にイライラしてる炎タイプ、私が水タイプと言った所でしょうか。何となくの説明で申し訳ないのですが。

 

草タイプが恐らく主人公です。炎タイプが高校生あたりから目覚めて草タイプを影からサポートしていたようですが外界に出てきてしまったようです。私はいつ生まれたのかわからないですが草と炎を見つめる仲裁ポジションの水タイプといったところでしょうか。何せポケモンには疎いので感覚で理解してもらえれば結構です。

 

自分の中で自分の意見が統一されないとは酷なものです。草がイエスといえば炎がノーと言う。その逆も然りです。また、記憶が散り散りになっていることや、いわゆる脳内会議といった意思疎通が取れないせいで一貫性がありません。何か思った事があれば各々がメモ帳に書き留めるという事にしていますが、各々の文量や書き連ねる事項が違うため難しいところではあります。

 

少し躊躇っていた治療についても、病状が悪化した関係でいよいよ向き合わないといけないと医者に相談した結果、「全員(自分の中の自分達)が治療に前向きで無い限り行うことは出来ない」と言われてしまいました。なんとかしようとは思っていますが一進一退状態です。

 

とりとめの無い文章になってしまいましたが、兎にも角にも解離性障害とはとても厄介な病気だと言うことを改めて思い知らされました。私自身不明な点が沢山あり、そのような状態であることを周囲の人達に理解してもらうのは大変難儀なものです。

 

私に何が出来るかわかりませんが、私なりにこの病気について理解を深めていこうと思っています。

 

追記:

同じような疾患を持っている方の場合、各々に名前がついている事が多いようなのですが、私達の場合そのようなものがありません。どうしても説明しなければといった際に便宜上名乗ったりはしていますが・・・。名前を持たれている方々はどのような形で自分自身を名付けているのか興味深いです。それもまたこの病気の不思議なところといった部分なのでしょうか?

 

 

“KAWAII”から考える生き方と世界〜YES, KAWAII IS ARTやらFantastic Voyageやら〜

身体は大人、心は子どものカニです。

 

6%DOKIDOKIもとい増田セバスチャンさんの作る世界観好きが高じて、"YES KAWAII IS ART"なる展覧会に足を運びました。

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https://sebastianmasuda.com/works/osaka2021/

 

最初は「お!展覧会あるのか、行こう〜」という非常に軽いノリだったのですが、現地に赴き、作品の節々に触れるたびに「これはKAWAIIを通じて何かを訴えかけられているのではないか?」と感じました。

 

今回の展覧会は3つの会場に分かれており、それぞれ違う作品を観ることが出来ます。

 

その中で一番心に刺さったものが“Fantastic Voyage"です。

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なんでも「隔離された世界で未来を想像する装置」に乗り込み深層心理に訴えかけてくる作品との事…。

 

正直、めちゃくちゃ訴えかけられました。

 

この作品、装置に乗って体感することが出来る体験券と、作品全体を俯瞰出来る鑑賞券に分かれております。

 

どちらのバージョンにも参加し、じっくり味わいましたが、主に体験券で実際に感じた事を書いていこうと思います。

すべて個人的な感想なので悪しからず…。

 

 

まずは乗り込む装置。見た目は繭のような感じ。何故かポケモンのユキハミっぽいな〜とか勝手に思いました。透明で表面がポコポコしている感じです。寝るお布団はふわふわの雲のようでした。かわいい。

中は結構窮屈でびっくり。その圧迫感はむしろ繭になったかのような感覚を増幅し、お腹の中の自分ってこんな感じだったのかな〜生まれる前のサナギってこんな感じなのかな〜とか思いました。

※お写真は鑑賞時に撮ったものです。黒い棒部分には搭乗者さんがうっすら見えます(詳しくは動画で)。

https://youtu.be/My86rN4bckY

体験してる際は見られている事に全く気付きませんでした。没入感すごし。

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いざ作品スタート。暗闇。聞こえてくる不協和音。中々装置は動き出しません。何が始まるのだろうという期待と不安が同居していました。

 

装置が動き始め、作品が見え始めます。その時の率直な感想は「悪夢」でした。天井から垂らされている糸は蜘蛛のようで、時に装置に引っかかりそうになるくらい長いです。装置にテローンと被さった時は触ってないのにヒェェェという気持ちになりました。装置に入っているからこそ良い意味で逃げられません。

音と光もダークなイメージを連想させられました。KAWAIIんですけど、どことなく不気味なんですよ。あってはいけない何かがあるような気がするんです。

色は時と場合によって異なる印象を与えると思うのですが、その時照らされた"赤“は血や狂気の色でした。

 

蜘蛛の糸から少し離れると、沢山のテレビ画面が何かを映しています。ものすごく人工的で無機質な感じ。真っ先に浮かんだのは外界。私以外の何かです。それは世間であったり、噂であったり、SNSであったり…。色んなコトやモノに縛られている自分って何なんだろうって思いました。

 

途中、平和(?)なパートが訪れます。緑や青で包まれます。音楽も若干調が整った感じで、何だか解放された気分になりましたが、どことなく緊張感。

 

そう思ったのも束の間、またダークサイドに落っこちてしまいました。うわー上手くいってる時とそうでない時ってこんな感じでテンションが浮き沈みするんだよな〜とか思いました。

 

そうして作品をグルグルしていると、装置がピタッと止まりました。頭上には大きな繭玉のような物体。その繭玉がパックリ割れており、赤で敷き詰められたものが散りばめられていました。

装置が突然ガガッと動き出します。イキテル…?????ワタシが生きてるのか繭玉が生きてるのかよくわかんなくなりました。

そして急にこの繭玉ちゃんに親近感を覚えました。ものすごく肉質的な何か。パッと思ったのは心臓・脳です。こいつも私も生きてる。お互いがんばってるな。

 

そしてラストスパート。今まで真っ暗だった世界に白い光が宿り、繭玉ちゃんとお別れしながら作品が終わりました。装置に乗っていてずっと不安&緊張の連続だったのですが、繭玉ちゃんとのご対面以降は綺麗なくらいのハッピーエンドでした。(この流れはうまく説明できないので是非体験してもらいたい)

 

さらに驚きだったのが、このハッピーエンドの流れに関しては体験と鑑賞で全く異なる解釈が出来てしまったことです。体験では「新しい」「生まれ変わる」事を肌で感じたのですが、鑑賞してみると「天国」「卒業」みたいなちょっとネガティブな印象が強いんですよね。自分の中の何かがいなくなってしまう感じです。主観と客観でここまで違うのかと、かなりびっくりしました。

 

以上、Fantastic Voyageの体験でした。

 

まだプロトタイプとの事で、これから体験できる装置を沢山増やしていきたいとのことでした。この作品を観る方すべての人に体験してほしい…!ささやかながら応援しております…!

 

他の展示もとても良かったです。Coloful Rebellionもさることながら、増田セバスチャンさんが世界中のKAWAIIカルチャーの方々とリモートセッションしている展示や、色んな方からのKAWAIIの価値観を集めた分厚い単語帳(?)などなど、色んな角度でのKAWAIIを楽しめました。Kawaii allowed me toから始まる言葉が本当に多い。皆KAWAIIに救われている。もっとKAWAIIを楽しもうと思いました。

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P.S. 増田セバスチャンさんより、Fantastic Voyageの作品ネタバレありでブログ書いてもいいよ〜とご許可を頂いております。ありがとうございます…!