感覚をバグらせろ

書きたいことを書きたいだけ書きます。

キモさと向き合うこと

タイトルが閃かない場合は、先に本文から書いてしまおうと決めている。大体思いつかない場合は、スケール感の大きいことや、言葉を選びながら記載しなければいけないことが多い。

万人にとって受ける文章を書こうとは思っていないのだが、言葉ひとつで得られる印象が異なってしまうことがあるから。

 

今日書き留めたいのは、「早口オタクは最高」「キモくてなんぼ」「キモい事をリスペクトし合えるの最高」「一方通行なオタクになってはいけない」である。

なんのこっちゃと思うかもしれない。それくらい自分の文章が突発的で、一見意味のわからないものだと・脈絡の無いものだと認識している。それでいい。

 

 

「それでいい。」そんな言葉を書いてしまって、私自身がセーブをかけてしまっていることに気づく。割と考えていることは大量にあるのだが、どこか心の中で「これを言ったら嫌われるだろうな」「理解してもらえないだろうな」、そんな感情が頭をよぎる。だから逃げ込む。塞ぎ込む。自分のよき理解者は自分自身であると、強烈に信じ込まないといけない。

 

とにかく頭の中のキャパシティが限界を超えていて、油断すると割と泣き出しそうである。私はとにかくおしゃべりだ。実は地味に。ノリに乗ってる時限定である。しかも自分の興味関心のあることだけ一方的に話してしまう癖がある。とんでもない悪癖だと思う。この悪癖には名前がついているのだが、あまり理由にしたくない。言い訳にしたくない気持ちの方がよっぽど強い。今までその名前で呼ばれてきた事の方が少なく、有難いことに個性として受け入れてくれる人もいる。私のような人間を許してくれる人はそうそういないのだが、受け入れるよ、という姿勢を見せてくれる人達は基本的に優しいか変態である。多分。ここでいう変態は、「個性的」とか「オタク」とか「興味好奇心が強い」とか、そういうニュアンスである。『変人』ではあるが、『狂人』ではない。この似て非なる感覚をどう伝えればいいのか言葉に悩む。

 

変態であることに気づいてしまった瞬間から、それを解放させたいと思ってしまった瞬間から、中々制御が効かないと思っている。とにかく自分のやりたりことを貫き通したいのだ。こんな事を考えている自分は最悪だと思う。人の心に寄り添いたいと思う一方で、自我も持ちたいのだ。めちゃくちゃだ。猫の皮を何枚も着ているのかもしれない。他人からそう見えるかもしれない。それすらも自分自身なのかもしれない。わからない。たまに自分の顔がすっぴんなのかフルメイクアップされているのかわからなくなる。きっと怪人百面相である所以だ。闇が深いようで浅く、光輝いているかと思えば薄暗い。真ん中ではない。佇みたいなとたまに思う。出来ないからきっと悩んでいる。

 

昔から、とにかく世間話が苦手だった。今日は天気がいいですねから始まり、芸能人やら映画やら流行ってるあれこれやら。薄い会話には興味がないのだ。「で?」となってしまう。でもちゃんと話は聞いている。実際に話に関わってはいないかもしれないが、脳みそだけはきちんと稼働している。不思議なことに。この脳みそに助けられたこともあれば、苦しめられることもあったりなかったりする。苦手ではあるが、興味を持つ努力をしている。最早サバイバル術からライフハックの領域に達しているかもしれない。人の話を聞くことは、義務だった。自分の話をしたことはあまりない。する瞬間がなかった。してもすぐに相手のフィールドに戻された。3時間話して、自分の話が10分まともに出来るかどうか微妙なラインだった。そういう環境だった。だから私の話を面白がって聞いてくれる人達にはつい何でも話してしまう。興味関心のある領域の話をベラベラと話してしまう。これが悪癖の要因に繋がっている気がする。客観視出来ているつもりだが、コントロールできない。均等に割り当てられている自信がない。スポットライトがまぶしい。でも立ってみたい。立ったら立ったで後悔し、反省する。それの繰り返し。以前、気心の知れる友人にこんなニュアンスの事をポロッと話したら、「自分で自分のことをめんどくさいと思ってるってことでしょ、話通じてるから自信持ちなよ」と言われた。救われた。そうか、自分は究極に自分の事をめんどくさがっているのかと。その通りだと思った。かなり刺さる一言だった。

 

こんな話の展開なら好きだ。「今日は天気がいいですね、そういえば最近天気がいいのって〇〇だからですかね」「この芸能人、実はこんな一面を持っていてすごいんですよ、例えばこのドラマなんですけど」「この前映画観に行ったんですけど、〇〇の描写に凄く感動しました、そもそも今回の映画って」

 

基本的に私が会話として勝手に求めているのは、何かしらの『オタク要素』であることに気づく。その人の視点が知りたい。何を考えているか知りたい。その情報をどこから引っ張ってきたのか知りたい。どういう思考回路をしているのか知りたい。なんでそんな感想を抱いているのか知りたい。着眼点がどこからきたのか知りたい。その人にとってのツボを知りたい。鍵を知りたい。好奇心がどこに眠っているのか知りたい。抽象的で間接的な話題から、その人の具体的で直接的な何かしらをみにいきたい。ものすごく勝手に。もちろん情報としてフムフム、となっている事もあるのだが、せっかくその人と話すのなら、全てを味わいたい。そういう気持ちが強い。知り尽くす事なんてきっと出来ないだろうが。

 

こういうムーブメントをしていると、たまに気味悪がられる。これは長所であり短所だ。「ものすごく勝手に」、これは自分の意思が働いている時は別として、無意識的に処理してしまうことがある。脳みそが勝手に記憶し、勝手に分析し始めるのだ。やめられない。この脳みそをかなぐり捨てたいと昔は思っていた。普通を目指していた理由の一つ。今はあたたかな言葉をかけてくれる人が多く、受け入れてもらえることが多く(泣きそう)、捉え方をようやく変える事が出来そうなのだが、たまに捨てたくなる衝動を抑えられなくなる。エイヤって。

奇天烈な発言や意見を喜んでもらえる時もあるのだが、どうしても、10いいねよりも、100いいねよりも、1000000000000いいねよりも、1わるいねの方が記憶からこびりついて離れない。自分の成長のために必要であり、悪い意見こそ受け入れるべきだと思うのだが、精神的なウェイトがなぜこうも違うのか、わからなくなる。

 

上から目線とか、まだこんな年齢なのに悟りを開いた口を聞いて、なんて怒られて殴られかかったこともある。すごい悩んでいて苦しそうだったから、私からみた、その人の良さや尊敬している所を喋っただけだ。私としては、ごく自然に。それが気に入られなかった。私も恐怖心が勝ってしまい、対峙できなかった。その場を離れてただ泣くことしか出来なかった。

今なら、アドバイスを求めていた訳ではなく、本当に苦しんでいて、ただ話を聞いて「うん」と頷いて欲しかっただけなのだと気づく。後日謝罪されたのだが、それも含めて優しさを心の底から感じた。「そういう所、やっぱり優しいね」と言いたかったのだが、無難に「気にしてないよ、そのくらいあの時大変だったってことでしょ」くらいに留めておいた。

 

殴って欲しかった。