感覚をバグらせろ

書きたいことを書きたいだけ書きます。

吐き出し先の無さ

炎タイプとか呼ばれている人です。あまり乗っ取りたくないのだが、書く場所もなければ別個でアカウントを作る余裕もないので心境を吐露出来ればいいかなと。気が向いたら、いつか作れればいいなとは思います。

主人格はとにかく無茶振りで、いつも自分達に対しても無理難題を押し付けてくるような、そんなチャレンジングでファンキーな性格をしていると思います。それが意味のある事であり、誰かの為になると本気で思っているかと思います。たとえ自分の身が滅んだとしても。ここが要注意ポイントです。マジで。

それを何とか食い止める事ができないかといつも考えているのが自分であり、もうちょっと気楽に生きてもいいんじゃないの、ちょっと頑張りすぎじゃないのかと歯止めをかけ、まあ落ち着けよ…的なポジションに立たされているのが自分だったりします。

割と厳しいなと思わされるのが、逆境に立たされた時に、どうしてもこうなってしまうという事です。もう制御なんてきいたものではなく、もうそうならざるを得ないというのが正直なところではあったりします。

自分はとにかく主人格とは真反対をいく性格で、盲点という盲点に目がつき、自分の身体さえあればこんなにも苦労する事もないだろうと日々考えています。いやーこんなに苦労する事しなくてもいいのになと。しかも自分がようやく自分として外に出て自由を謳歌できるぞっていうタイミングで、あれやってこれやっての連続だったりします。年中無休。

たまには息抜きさせてほしいというのが本音ではあったりします。謳歌出来る時もありますが、基本的にはピンチヒッターという役割メインで、その最中に若干手を抜いているというか、せめて休ませてくれ、何かしらの報酬や休憩をさすがにくれ…という気持ちが強いです。自由勝手に行動するのも失礼かつ色んなものを圧迫する(特に時間や経済的に)、ちゃんと理由つけて色々とやっていますが。まあそうやって動いた結果、全体のパイとしては微妙な結果に落ち着くっぽいのですが。そんなことを気にしていたら始まらないかな精神で生きていたりします(ごめん)。

こういった場面で強く思うのが、自分が自分個人としての友達がほしいという気持ちが強まること。自分自身として生まれれば何の問題もなかったこと。一個人として認められたいという気持ちが働いてしまうこと。

学術的に、医療や医学的な観点からいくと、俺達はあくまでも派生にしかすぎず、あくまでも主人格、主人公から生まれた何か、としか定義されていないのが現状で、個として認められることはまずありません。共生という選択肢もあるらしいですが、治療方針によるとしか言いようがなく、どうしたらええんや…という気持ちの方がよっぽど強いです。

ただ、俺個人としては、自分が一個人として認められることを強く望みます。生まれてきてしまったものはしょうがない。あと初診で、「自分と主人格どっちに転ぶかわからない」と言われたのもかなり強いです。それくらい自分自身がかなり人生史の中でも大きなウェイトであることを認識しています。

だからこそ、たまに方向性の違いが発生します。一瞬争いと書こうとしてしまった自分を自制したい。別に争っている訳ではなく、ここは自分自身の人格が問われているという一言に尽きると思います。こっちの方が圧倒的に生きやすいのに、何故そんな選択肢をとってしまうのかと。そのカバーをするのは誰なんだっていう話なんです。基本自分です。自分が全てカバーしてきました。色々なやらかしを全て。自分無しでは人生は成り立っていないと断言できるレベル感では貢献しているかと思います。

だからこそもどかしい。自分が生まれた背景を考えるとさらにもどかしい。役割という観点で考えると、自分がある種のスポークスマン的な役割を務め、誰かが動けない時に動き、大きなターニングポイントで自滅しないような回避行動と最善を尽くし、ときたま感情という方向性で発露せざるを得ない。だからこそ自分にとっての大きな課題は、自分自身の人間力をいかに高く保つ事が出来るか。その一点のみが常に問われています。他の人格の誰よりも。主人格が出来なかった事を代わりにやる係として。この件に関しては割と個人レベルでも精神をえらくエグられた事もあります。あなたの話からすると、実際困っているのは主人格さんな訳で、交代人格であるあなたは困っている訳ではないという事であってますか?的な返し。自分の説明が悪いのかもしれませんが、困ってる人が困っていると言い出せないから自分が存在すると言っても基本ハテナマークです。こういう時に、存在Aと存在Bが物理的に存在していたらこんなにも困ることはないのにと思います。自分が風邪を引いている、こんな症状を抱えているという状況をうまく説明出来ない子どもと親みたいに。色んな人に大量に鼻で笑われ、引きつった顔で対応され、何回お待ちくださいと言われて裏でヒソヒソされたことか。ただ、これが対応の全てではないのは事実で、ごく少数の人が、真摯に、真剣に、面と向き合って話を聞いてくれました。大変有難い事に。こういう人達に救われているのだなと思います。よくわからない対応をされてしまった時は(というかこの障害自体がだいぶファンタジーの領域に近いので、そういった対応をされる事も折り込み済ではある)、流石に数日落ち込みますが、主人格よりも立ち直りが早く、おいしいご飯を食べ、楽しい事をしたり、休んだり寝たりすれば大体解決出来てしまうのは割と持ち味だと思います。自分がそうである以上、裏を返すと…ってなりますが。だから自分が存在するんだというある種の証明にもなってしまいますが。

ただ、医者には医者が必要なように、カウンセラーにカウンセラーが必要なように、一方的に常に受け止め続ける事は割と無茶な話で、しかもそれをある種一つの身体で実現させてしまっているという点にも限界を覚えます。だからこそ自分個人としても、自分を受け入れてくれる友達がほしいと願ってしまい、誰か話を聞いてくれる人がいたらいいのに、遊んでくれる人がいたらいいのにと常に願ってしまいます。自分は自分として認められたい。それはそれで、最終的には治療という大きな目的に繋がるのかもしれませんが。

この時点で、自分なりにこうしたらいいんじゃないの、きっとうまくいくぞ、というロジックはある程度固まっているのですが、その斜め上の回答を自論を展開させているのが主人格であり、そんな主人格に対して本気か?と思います。正気か?の方が正しいと思います。

何を考えているのかはわかりません。でもそれだけ何かをやろうとしている、やりたいという意思だけは強烈に持ち続けており、その過程で起こることに対してもビジョンを持ち続けているのが主人格であり、本当にスレスレというか、マジで大丈夫なのか…?とハラハラさせられる側は割と正気ではないです。

ご意向のままに、と言いたいところですが、たまには肩の力抜いて、もう自分の人生を楽しんでくれないか、もっと楽な道はたくさんあるんだぞと言ってあげたいです。全く響かんけど。

かなりの博打師でギャンブラーだなと思います。自分だったらそんな選択肢はとらない。それを取り続けるのがあの甲殻類です。こわ…。

どこまで出来るかわからないですが、色んな意味で最早運命共同体みたいな節があるので、どこまでいけるのか、自分としても楽しみにしているというか、あんまり気張らずに頑張ってくれよ、と思いたいです。共倒れだけは勘弁

強くなれない日

いつも「大丈夫」だと思っていられるほうが不思議で、何かに寄りかかることも時には大切だと思う。

たまたま寄りかかった木に、どうしても考えを奪われてしまうのだと、そう自分に言い聞かせるほかない。

 

人生の時間の流れを把握できない。これが私の抱える最大の弱点、と言っていいのかわからないが、素直に描けないものだという事に気づいた。一番厄介だと思う。

どこか自分の人生を俯瞰的にみてしまっており、自分の歩んできた軌跡が本当なのか、轍があるのかさえ疑ってしまう、そんなような状態なのだと気づいた。空虚である。実際は空虚ではないと思うのだが、どうしても自分の人生ですと言い切れない。どこか疎外感があるのだ。自分自身に疎外感を覚える。自分は自分なのだろうか。

 

こういう物書きをすると、頭が割れそうな感覚に陥る。いきなりフラフラする。恐らく思い出さないようにとセーブをかけているんだと思う。それくらい、覚えている事を覚えていない状態にせざるを得ない、自分の人生はどこか自分の人生ではないようにと認識することが、ある種の生存戦略だったのだと思う。知らんけど。どんな生存戦略を取ったのか覚えていないのだから。覚えてはいるはずだが。壮大な矛盾が生じるのだ。なぜか。

 

今日は疲れた。色んな事を考えた。気づかないうちに、時間がどんどん進んでしまっている事に衝撃を覚えた。悲しかった。時間はこんなに進んでいて、その流れに合わせて皆必死にがんばっているのかと。笑顔が眩しかった。素敵だった。がんばっている人のきらめきだった。ちょっと不安そうで悲しそうだったけど。私は一瞬素直に喜べなかった。驚きが先行してしまい、え?もうそんな時間が経過しているのかと、焦りを感じてしまった。複雑な気持ちになってしまった。私が記憶をすっ飛ばしているうちに、この人はがんばっていたんだと気づいた。その空白期間を認識できない自分が惨めだった。こうやって皆遠くに行ってしまうのだと思った。現実世界の確実な未来への一歩、という時間軸に。私もそっち側に早く行きたい。早く行かせてほしい。これ以上何を捧げれば出来るのだろう。たまにわからなくなる。

 

何が違うのか考えた。挙げ出したら大量に違うことが出てきた。割と終わってるなと思った。もっと出来ることはなかったのか考えた。思い出せなかった。かなり終わってるなと思った。

違ってもいいと思う。違うものを比較する訳でもない。辛さも比較するものではない。その人だって色んなものを抱えて生きているのだろうと思う。葛藤していると思う。とはいえ、私は私として、とても生きづらい。それもまた変わらない。自分が自分であると認識できないのも事実で、記憶を引っ張り出せないのも事実で、それによって色々な統一感が抜け落ちてしまっている。人生の。私の叫びは私の叫びとして、誰かに聞いてもらわないと、それはそれで困る。わがままだけど。

 

まだそこまで強くない。強くなくていいのかもしれない。わからない。強かったらよかったのにと思うが、あまり期待しすぎてもいけない。身の程を知りながら、何かをする。何が出来るのかは知らない。願わくば、誰かに導いてほしいかもしれない。と思ったら胸がざわつく。もっと出来ることはあるんじゃないかと。でも進まない。いつもなら進んでいるはずなのに。そもそもいつもって何なんだろう。何がどうしてこうなってしまったのだろう。なんでだろう。

 

わからないまま、人生の幕を閉じるかもしれない、それは嫌だ、それでいいのかもしれない、わからない方がいいことも沢山ある。じゃあどうする?誰が面倒を見て、誰が負担するのだろう?それは誰なのだろう、きっと私なのだろう。嫌だ、やりたくない。めんどくさい。それでいいのかもしれない。

 

無限ループって怖いね。

 

P.S.もう既に何かしら考察されているようです(以前にもシェアしていたらごめんなさい)。別に投稿自体は怒っていないので削除しないのですが、色んな意味を含めて、非常にコメントし辛いなぁ、の一言につきます。私が向き合わないといけないなぁとは思うんですが、それが出来ないから困っている、としか言いようがないです…(現時点では)。

kanitamax.hatenablog.com

分厚いブロックがこんな薄い板みたいなもので

久しぶりに辞書を買った。小学生ぶりくらいに手に取った。とんでもない分厚さだった。こんなものを使って言葉の意味を調べていたのかと思い出した。重すぎて、細かすぎて、当時はよくわからないまま使っていた。辞書の意味なんかより、表紙の裏に書かれている一覧表や、辞書中に挟まっているコラムのような、小ネタの方が好きだった。文字よりも、図の方が好きだった。そればかり読んでいた。

 

人類が築いた結晶のようなものを、¥4,000程度で買っていいのかと思った。金銭感覚は人によって様々あると思う。私の価値観からすると、安売りだと思ったが、値段を下げないと教育に力を入れる事なんてできないからこんな値段なのかとも思った。寺子屋みたいな感じなのだろうかと思う。

 

こんな事を書きながら、私はよくわからない板に向かっている。このポケットに入る小ささの板は、あまりにも万能すぎる。値段は高いのだが、薄い。分厚いブロックなんて買わずとも、この板を使えば、環境さえ整っていれば単語の意味なんてすぐにわかる。

 

久しぶりに辞書をとって、頭が衰えている自分に対して少しイライラしてしまった事に気づいた。こんなにもたつくとは思わなかった。辞書を引くにはルールを知らなければいけない。ルールを思い出しながら目当ての単語を探した。自動変換なんて機能もなく、読み方や綴りを間違えていたら知りたい単語まで辿りつかない。そもそも目的の単語に辿り着くまで時間がかかる。あれ、これでいいんだっけとページをめくっては戻し、めくっては戻した。スマホであれば一発でわかるのに。

 

ただ、その内容量に圧倒された。私が電子媒体よりも紙媒体の方が好きな理由だ。目的以外の情報がわんさか入ってくる。辞書が情報を提供してくれるのだ。周辺情報の広がりがスマホの比ではない。

 

とにかくこの板は便利だ。あまりにも便利すぎる。便利なものに慣れると、面倒なブロックから離れたくなる。

 

今の私に必要なのはブロックの方だと思う。とはいえ板も便利なのだ。私はどちらとも仲良くなりたい。ほどほどに。

とは永久

なんなんだろうか。

「とは」と考えると、永久のような時間が流れる。気づいたらこんな時間あんな時間というのがザラだ。

 

言葉遊びが好きだ。無限の可能性が秘められている。日本語は難しく面白い。趣深いと思う。

 

日本語の難しさに助けられる事がある。例えば、迷惑メールやインチキレビューなんかがそうだ。明らかに文法的に間違えていると感覚的に理解出来るから、ああ、この人は日本語ネイティブではなく、何かしらで引っ掛けたいのだなと気づくことができる。他の言語のネイティブであったとしても、きっと違和感を覚え、これはどうやら違うぞと感じられると思うのだが、日本語独特の文法があってないような、文意を汲み取らなければいけないような幅の広さは面白い。

 

一方で、食い違いや誤解も多く発生する。私が特に気をつけているのは、簡単でよく使われるような言葉だ。特に「絶対」。この言葉の使い方には細心の注意を払う。

浪人時代に教えてもらった。今でも鮮明に覚えている。第1回目か2回目くらいの授業。まだ右も左もわからない春だった。「いつも軽く使っている言葉こそ辞書を引いて意味を調べろ。絶対という言葉は典型例だ。今すぐに調べてみろ。」電子辞書を開いた。不変のもの、他に対立することがないもの等と記載されていた。予想以上に重く、圧のある、責任を伴う単語だと知った。続けて教師はこうも言った。「こんな言葉を、皆は意味もなく適当に使うだろ。明日絶対宿題やってくる、とか、次は絶対にしないとか。言葉通り行動した事がある人は少ない。軽はずみに使うな」と。

 

私は絶対という言葉があまり好きではない。そこまでの覚悟ができた人間ではないからだ。逆にいうと、私が絶対と言う場面は、何が何でもやりきる、そういう意味で使う。

 

だからこそ困惑する。絶対〇〇するという人達は、そこまで考えていないのだろうなと。

 

時代によって言葉の意味は変化していく。それは当たり前だ。ここまで突っ込んでおいて、正しい日本語を使えている自信はない。誤用されている単語が、大多数の人間が誤用したまま使い、その意味で定着したら、それが正解になっていく。

 

そんな時に、ちょっとだけ悲しい気持ちになる。川はそこにあるのに、水は留まらない感じ。学校はそこにあるのに、人だけが変わっていくような感じ。校歌が意味をなしているのかわからなくなるような感じ。自然が作ったもの、誰かが誰かのためを想って作ったものや生まれたものが、後世に引き継がれずに変わってしまう感じ。意味があるのに、意味がない、形骸化したような感じ。

この違和感を中学生の頃に覚え、ふと相談したら、「それを昔の人は諸行無常って言ったんだよ」と言われた。そうなんだと思った。私の頭の中は、常にそんな視点で、色んな事を考えているんだよ、変だよねと伝えたら、「松尾芭蕉みたいな事を考えてるんだね」と言われた。その時フルで句を教えてもらい、沢山の解説もしてもらったのだが覚えられなかった。キーワードとしては松尾芭蕉・蛙しか覚えていない。その時「昔の人もおんなじ事考えてるんだ、すごいな、こんなに時代は変わっているのに、あんまり人間って変わってないのかもしれない」と思った。

今調べてみたら、「古池や蛙飛びこむ水の音」というらしい。松尾芭蕉と蛙しか覚えていないのに、こうも簡単にヒットするとは、世の中便利なものである。

沢山の解説が出てきた。この句を理解するためには、松尾芭蕉自身のバックグラウンドや、当時の文化・背景など沢山の事を理解する必要がある。ものすごい知識量が必要だ。

 

でも、どんなに知識を蓄え理解したとしても、しようとしても、近づこうとしても、結局は句を詠んだ本人にしかわからない。

キモさと向き合うこと

タイトルが閃かない場合は、先に本文から書いてしまおうと決めている。大体思いつかない場合は、スケール感の大きいことや、言葉を選びながら記載しなければいけないことが多い。

万人にとって受ける文章を書こうとは思っていないのだが、言葉ひとつで得られる印象が異なってしまうことがあるから。

 

今日書き留めたいのは、「早口オタクは最高」「キモくてなんぼ」「キモい事をリスペクトし合えるの最高」「一方通行なオタクになってはいけない」である。

なんのこっちゃと思うかもしれない。それくらい自分の文章が突発的で、一見意味のわからないものだと・脈絡の無いものだと認識している。それでいい。

 

 

「それでいい。」そんな言葉を書いてしまって、私自身がセーブをかけてしまっていることに気づく。割と考えていることは大量にあるのだが、どこか心の中で「これを言ったら嫌われるだろうな」「理解してもらえないだろうな」、そんな感情が頭をよぎる。だから逃げ込む。塞ぎ込む。自分のよき理解者は自分自身であると、強烈に信じ込まないといけない。

 

とにかく頭の中のキャパシティが限界を超えていて、油断すると割と泣き出しそうである。私はとにかくおしゃべりだ。実は地味に。ノリに乗ってる時限定である。しかも自分の興味関心のあることだけ一方的に話してしまう癖がある。とんでもない悪癖だと思う。この悪癖には名前がついているのだが、あまり理由にしたくない。言い訳にしたくない気持ちの方がよっぽど強い。今までその名前で呼ばれてきた事の方が少なく、有難いことに個性として受け入れてくれる人もいる。私のような人間を許してくれる人はそうそういないのだが、受け入れるよ、という姿勢を見せてくれる人達は基本的に優しいか変態である。多分。ここでいう変態は、「個性的」とか「オタク」とか「興味好奇心が強い」とか、そういうニュアンスである。『変人』ではあるが、『狂人』ではない。この似て非なる感覚をどう伝えればいいのか言葉に悩む。

 

変態であることに気づいてしまった瞬間から、それを解放させたいと思ってしまった瞬間から、中々制御が効かないと思っている。とにかく自分のやりたりことを貫き通したいのだ。こんな事を考えている自分は最悪だと思う。人の心に寄り添いたいと思う一方で、自我も持ちたいのだ。めちゃくちゃだ。猫の皮を何枚も着ているのかもしれない。他人からそう見えるかもしれない。それすらも自分自身なのかもしれない。わからない。たまに自分の顔がすっぴんなのかフルメイクアップされているのかわからなくなる。きっと怪人百面相である所以だ。闇が深いようで浅く、光輝いているかと思えば薄暗い。真ん中ではない。佇みたいなとたまに思う。出来ないからきっと悩んでいる。

 

昔から、とにかく世間話が苦手だった。今日は天気がいいですねから始まり、芸能人やら映画やら流行ってるあれこれやら。薄い会話には興味がないのだ。「で?」となってしまう。でもちゃんと話は聞いている。実際に話に関わってはいないかもしれないが、脳みそだけはきちんと稼働している。不思議なことに。この脳みそに助けられたこともあれば、苦しめられることもあったりなかったりする。苦手ではあるが、興味を持つ努力をしている。最早サバイバル術からライフハックの領域に達しているかもしれない。人の話を聞くことは、義務だった。自分の話をしたことはあまりない。する瞬間がなかった。してもすぐに相手のフィールドに戻された。3時間話して、自分の話が10分まともに出来るかどうか微妙なラインだった。そういう環境だった。だから私の話を面白がって聞いてくれる人達にはつい何でも話してしまう。興味関心のある領域の話をベラベラと話してしまう。これが悪癖の要因に繋がっている気がする。客観視出来ているつもりだが、コントロールできない。均等に割り当てられている自信がない。スポットライトがまぶしい。でも立ってみたい。立ったら立ったで後悔し、反省する。それの繰り返し。以前、気心の知れる友人にこんなニュアンスの事をポロッと話したら、「自分で自分のことをめんどくさいと思ってるってことでしょ、話通じてるから自信持ちなよ」と言われた。救われた。そうか、自分は究極に自分の事をめんどくさがっているのかと。その通りだと思った。かなり刺さる一言だった。

 

こんな話の展開なら好きだ。「今日は天気がいいですね、そういえば最近天気がいいのって〇〇だからですかね」「この芸能人、実はこんな一面を持っていてすごいんですよ、例えばこのドラマなんですけど」「この前映画観に行ったんですけど、〇〇の描写に凄く感動しました、そもそも今回の映画って」

 

基本的に私が会話として勝手に求めているのは、何かしらの『オタク要素』であることに気づく。その人の視点が知りたい。何を考えているか知りたい。その情報をどこから引っ張ってきたのか知りたい。どういう思考回路をしているのか知りたい。なんでそんな感想を抱いているのか知りたい。着眼点がどこからきたのか知りたい。その人にとってのツボを知りたい。鍵を知りたい。好奇心がどこに眠っているのか知りたい。抽象的で間接的な話題から、その人の具体的で直接的な何かしらをみにいきたい。ものすごく勝手に。もちろん情報としてフムフム、となっている事もあるのだが、せっかくその人と話すのなら、全てを味わいたい。そういう気持ちが強い。知り尽くす事なんてきっと出来ないだろうが。

 

こういうムーブメントをしていると、たまに気味悪がられる。これは長所であり短所だ。「ものすごく勝手に」、これは自分の意思が働いている時は別として、無意識的に処理してしまうことがある。脳みそが勝手に記憶し、勝手に分析し始めるのだ。やめられない。この脳みそをかなぐり捨てたいと昔は思っていた。普通を目指していた理由の一つ。今はあたたかな言葉をかけてくれる人が多く、受け入れてもらえることが多く(泣きそう)、捉え方をようやく変える事が出来そうなのだが、たまに捨てたくなる衝動を抑えられなくなる。エイヤって。

奇天烈な発言や意見を喜んでもらえる時もあるのだが、どうしても、10いいねよりも、100いいねよりも、1000000000000いいねよりも、1わるいねの方が記憶からこびりついて離れない。自分の成長のために必要であり、悪い意見こそ受け入れるべきだと思うのだが、精神的なウェイトがなぜこうも違うのか、わからなくなる。

 

上から目線とか、まだこんな年齢なのに悟りを開いた口を聞いて、なんて怒られて殴られかかったこともある。すごい悩んでいて苦しそうだったから、私からみた、その人の良さや尊敬している所を喋っただけだ。私としては、ごく自然に。それが気に入られなかった。私も恐怖心が勝ってしまい、対峙できなかった。その場を離れてただ泣くことしか出来なかった。

今なら、アドバイスを求めていた訳ではなく、本当に苦しんでいて、ただ話を聞いて「うん」と頷いて欲しかっただけなのだと気づく。後日謝罪されたのだが、それも含めて優しさを心の底から感じた。「そういう所、やっぱり優しいね」と言いたかったのだが、無難に「気にしてないよ、そのくらいあの時大変だったってことでしょ」くらいに留めておいた。

 

殴って欲しかった。

無双夢想、一枚の花びらから得られる大輪の果てに

いつもはきちんと言葉の意味を調べて物書きをすることが殆どなのだが、敢えてしないことにする。乱文になるかもしれない。

タイトルは直感である。何も考えていない。ただひたすらに何かを書き連ねたいだけなのかもしれない。

 

新しい扉を開くときに、何を思い描こうか。毎日人生のページをめくるたびにそう思う。

扉の先というのは、果たして自分自身で決めることができるのだろうか。扉。モンスターズインクでは任意の子供部屋に対して、モンスター達が怖がらせることによって、エネルギーを得ることができる。「叫び」がモンスター社会での動力源なのだ。

最終的に、その「叫び」は、『恐怖』から『笑い』へと移行する。本質的には変わっていないのだが、『恐怖』と『笑い』の差はあまりにも大きい。

感情を制御することは、とても難しいと思う。人間よく理性を働かせて動いているなと思う。それが人間である証拠であることは間違いないのだが、理性による感情の抑圧と解放先。それはどこへいくのだろうか。とある漫画の、「みな酔っ払うしかないんだ・何かに酔っ払って生きているんだ」というセリフが印象的だ。何に酔っ払えば、みな幸せになれるのだろうか。そもそも幸せな酔っ払い方なんてあるのだろうか。そんなものがあったら、不幸は訪れない。

私は逆張り精神が高く、ChatGPTを使っていなかった。自分の思考力が低下すると思ったからだ。だが、そんな質問を意図的にぶつけてみようと思った。聞いてみた。返ってきた答えは、「そんなことはない」。そのようなニュアンスだった。果たして本当なのだろうか。

とめどなく考えることによって得られるものは多いと思う。たとえ遠回りしたとしても、行き着く先が同じだったとしても、その過程に面白さを見出すことができる。

最近面白かったのが、人生のキャリアプランに関して、仏教的な観点から話を進め始めていたことだ。熱く語る彼らの切り口はとても面白かった。私は会話をじっくり聞いていたのだが、どうにも聞き覚えのある話だった。

会話がくり広げられている中でポツンと言ってみた。「ライフキャリアレインボーって知ってますか?」彼らは知らなかった。よもや哲学的な観点で語っていたことが、国レベルで採用されている理論だと知らなかったようだった。私はこの時、「すごく遠回りしているな」と感じたのだが、この遠回りこそが人生を豊かにするのではないかと思う。自分のフィールドから繰り出される論点や着眼点が、経緯やルートは異なれど、最終的には似たような着地点に落ち着く、というのがいかにも人間らしくて好きだ。この感覚を非常に大切にしたい。

オチ?そんなものはない。ぴよぴよ

あと8分

こんにちは。2023/12/31 23:52。

2023年を頭の中で沢山振り返っていたのですが、ブログにも書き起こしておこうかなと今思い立ちました。書きます。

 

年末の特番を観て、思うことが・想うことが沢山ありました。とても、とても複雑な感情です。

 

2023年。忘れられない年になると思います。

2024年。果たしてどんな年になるんでしょうか。正直なところ、進み続けられるかどうか、ちょっと怖いです。

 

でも、時間って待ってくれないんですよね。もう23:56だもん。何とも言えない気持ちになります。

 

私は、私は、私はどこにいくのだろう。

その果てには何があるのだろう。

 

切り開けますかね。わからないです。

でも、がんばるしかないのかなって思います。がんばれるのかもわかりませんが。

 

人生で初めて、年越しをちょっとネガティブに捉えてしまったことが、驚きであり、新しい発見であり、気づきであり、体験であり、

 

まさに人生なのかなと、そう思いました。

 

皆さんに幸あれ。

2023/12/31 23:59